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仕事あれこれ

『歯車』 2002年4月4日


口の重い子どもが自分に話をしてくれるようになる。
そういう時、一番達成感のようなものを感じる。


この時期、初めて出会う子ども達の殆どは
低い柵ひとつ越えた隣の保育園からやってくる。
小さい頃から「預けられる」ことに慣れていても
ひとり一人、その差は大きい。
その慣れに対する諦めと不満。
そっちの方向が膨らんでしまう子どもがいるのは
自宅に戻ってからの対応に差があるからなのか。
仕事を終えて疲れているのはみんな同じことだが
母親だけでなく父親、そして他の家族が上手くかみあわないと
「なぜ私が、僕が」といったかたちで現れる。


私と子どもたち。

お互いに名前も覚えられない状態から
顔なじみとなり、やがて「いつもうるさいやつだな」となっていく。
ときには約束違反を知りながら見ないふりをしたり
喧嘩に温情判決を下す。
私だってあんたたちとそんなに変わらないよ、
という気持ちがいつも私の心の底にはある。


専業主婦になるんだと宣言してきたのに
どういうわけか働く母親を支援する仕事をしている。
この矛盾。

矛盾を感じながら今日も一応、
社会の小さい小さい歯車のひとつになって回る。






『natural bone poet』2002年6月5日


やたらと木に登る男児がいて
職場のみんなが手をやいている。

庭に木があって、
魅力的な枝が出ていれば
登りたくなるのも無理はない。

傍目にみても
ケバくペイントされた
ジャングルジムなどに登っているよりも
ずっといい。

だけど、預かっている側としては
まず怪我が怖い。
よって、
「ダメ」「降りなさい」とわめくことになる。

なんとか子どもの欲求と
こちらの要求を近づけられないかと考えてみた。

そこで枝の太さと高さを見て、
「ここの枝までは登っても良い」というラインを決め、
うれしそうに登っている子どもの姿を
迎えにきた保護者にも見てもらおう、と思った。

その男児は木登りだけでなく
下校途中でもいろいろと悪さをし、
砂遊び用のおもちゃを乱暴に扱ったため
「当分砂遊び道具使用禁止」の執行猶予中だ。

でも、悪さといっても彼のいたずらは単純だし
私にとっては許容範囲のものである。

許された高さの枝の上から
私を見下ろし彼は言った。


「先生、この木はね、ぼくのお母さんなんだよ」



う・・・・
詩人じゃないか。
まいるなあ。
こういうことがあるから
今の仕事がやめられない。







『ひとり遊び』2002年10月12日



「この子は誰もいなくても
見えないものや人をつくりあげて
遊んでることがよくあるんです」

そんな話をある母親から聞いた。

たとえば、小さな手のひらを並べてひろげ

「ほーら、かわいいパンダの赤ちゃんだよ」
と、まるでその掌に乗っているかのごとく見せにくる。

想像力の豊かさを喜ばしく思う反面、
少々の薄気味悪さも否めないという。

あなたはどうでしたか?
子どもの頃そういう遊びをしませんでしたか?

母親はしばらく考えたあとで、

「そういえば母が仕事に行っていたので
ひとりでいる間はよくそんなことをしていたかも」

想像の世界。
私も子ども時代はそんなひとり遊びが多かった。
既にここまでの年齢に達した今でも
相変わらずひとり遊びが多い。
少しもそれが苦にならず
まったく困ったものだ。


今日のワタクシは
北野武監督作品の『Dolls』のホームページで
かなりの長時間費やしてひとり遊びしてしまいました。
だって、すごくきれい。